青い空に一つの雲

第一話



 フィリップ・ド・フォンテーヌ公爵の長女、ソフィア姫の美しさは近頃、ここセイファーム王国広しと言えども、肩を並べる者がいないほどだと言われていた。
 墨を流したように艶やかな、腰まで伸びた黒髪と、透き通るように白い、なめらかな肌。真っ赤に熟れたチェリーのような、柔らかな唇。海の底のような瑠璃色の瞳と、それを縁取る長い睫。ほっそりした手足に、優美な曲線を描く細い首筋。そして、それらを一層華やかなものにする笑顔と優雅な物腰。
 ――そのあまりに美しく、整いすぎた彼女を人は、『フォンテーヌの人形姫』と呼んでいた……が。



「――絶対、ぜぇったい、イヤなんだから!」

 ビリッ、ビリリッ……

「冗談じゃないわっ!!」

 ビリッ!

「――わたしはお嫁になんて行かないんだから!」
 窓をそっと開けて、カーテンで作った即席のロープをそこから垂らす。
「えいっ!」

 ドサッ

「……ふふっ、大・成・功!」


 かくして、塔の上のお姫様は地上に舞い降りたのであった。







 仕立ての良い白いシャツに黒のリボンタイ、上下揃いのブラウンのスーツにフロックコート。
 その日、久々の休日のルイ・デュムリエ氏は、良い天気に清々しい思いで外出の準備をしていた。
 長かった冬も終わりを告げようとしている。どんよりと冬色だった空は、明るい光に満ち始め、日差しは徐々に暖かくなってきた。こんな春めいた日には、アルクレーヌ通りのカフェでランチ、と決めているのだ。

 だが、ドアを開けた瞬間、彼は大声を出しそうになった。家の前の道に人(しかも女性)が倒れていたのだ!







 突然の事にどうするかしばらく迷った末、ルイはとりあえず女性を自分の家に運び込むとソファに寝かせ、気付け薬に、口にブランデーをスプーン一杯注ぎこんだ。
 女性は睫を震わせて薄目を開き、そして勢いよく飛び起きた。

「やだっ! ここどこ?!」

 目を皿のように見開いて、慌てて辺りを見廻す。そして、横に立っていたルイと目が合うと、何とも言えない驚きの表情になり、それから、急に情けない顔になって呟いた。

「お……」
「お?」
「お腹空いた……」

 彼女のお腹の虫が、大音声で鳴り響いた。



「ごめんなさい。わたくし、お腹減って行き倒れてしまったみたいで」

 そう言いながら女性は、ルイの作ったサンドウィッチを、すごい勢いで平らげた。

「……いいえ」

 ルイは呆然とした表情で女性を見つめる。
 思わず背筋が寒くなりそうな、とんでもなく美しい女性だ。その青い瞳は宝石を、透き通った肌は陶器を思い起こさせる。

 ――まるで人形のようだ。

 お皿を空っぽにして、ナプキンで口を拭いている、ようやく落ち着いたらしい女性にルイは、突然こんな質問を投げかけた。

「……『フォンテーヌの人形姫』様が、どうしてこんな所で行き倒れていらっしゃるんです?」

 女性は、そのストレートな言葉に明らかに動揺したようだった。
 パンの残りが喉につかえたらしく、激しく咳き込み、慌てて水を飲み干す。

「え、な、何のことでしょう?それは、どなたのことです? わ、わたくしは存じませんが……」
「しらばっくれても無駄ですよ。ぼくはある方の秘書官を務めているのですが、そこの舞踏会であなたを見かけたことがあります」
「でも、あの、人違い……」
「あなたのような方を見間違えるほど、自分はバカではないと思っているのですが」

 ルイはじっと女性の目を見る。う、と女性は詰まり、やがて長々と息を吐き出した。

「どうなのです?」
「……そうよ、わたしが、ソフィア・ド・フォンテーヌ。フィリップ・ド・フォンテーヌ公爵の長女よ!」

 やはりそうですか、とルイは呟いた。

「ぼくはルイ・デュムリエと申します。先程申した通り、ある方の秘書官を務めています」

 ルイはそれから小さな声で、ご無礼をお許し下さい、と言った。
 ソフィアはルイをじいっと見た。


 ルイは、なかなかの王子様的外見の美青年だった。薄い水色の瞳に、よく手入れされた淡い金髪の、最近では珍しくなった長い髪。色白でスラリとしていて背は高く、目元は涼やかで気配に隙がない。
 しかしソフィアはこう思う。何だか表情のない人だ、と。


「正体がばれたところで、質問に答えていただけませんか? 何故こんな所にいらっしゃるんです?」

 ソフィアは黙り込んだ。俯いて、悲しそうに目を伏せる。ルイは腕を組んでじっとしていたが、ソフィアが何も言わないので口を開いた。

「どうなさったのです?」

 ソフィアは上目遣いにルイを見た。何だか恨みがましい目で。

「………………家出してきたの」

 ルイが目を丸くする。

「家出、ですか?」
「そうよ! ああもうっ、思い出すだけでも腹の立つっ……!!」

 ソフィアはそう叫んで立ちあがった。

「い、家出って……どうやって?」
「簡単よ! 気分が悪いって言って部屋に閉じこもって、ロープで窓から脱出して、街道まで逃げて、乗り合い馬車で都まで出てきて。そこまではよかったんだけど、空腹には勝てなかったわ……」

 腰に手を当て、自信満々に洒落にならない事を言う彼女を見てルイは呆けていたが、ハッと我に帰ると言った。

「何てことだ……フォンテーヌ公に連絡しなくては……」
「イヤッ! お願いっ、それだけはやめてっ!」

 ソフィアは頭を横に振りながら慌てて言う。

「そんなわけには参りませんよ。向こうだってお捜しでしょうし」
「お願いっ! イヤなの、ホントに嫌なの! だって、だって……」

 姫君はそこで言葉を切った。




「あそこにいたらわたしっ……お嫁に行かされちゃうっ……!!」





 ルイはびっくりしてソフィアを見た。これが貴族の女性の台詞だろうか?
 平民たちの間ではもはやそんな事はないが、貴族たちの間ではまだ、政略結婚はいたって普通に行われていた。もちろん、恋愛結婚をする人もいるが、普通は親が縁談を取り決め、娘はそれに従うものであった。古臭い風習だが、その陰で泣いている女性たちは今だに多くいた。

「お嫁って……」
「読んでるんでしょ、新聞!」
「もしかして――国王陛下!?」

 ルイの脳裏に、三日前の新聞記事が鮮明によみがえった。


『――セイファーム王国エスティアン朝第十五代国王陛下、リシャ―ル三世は、フォンテーヌ公、フィリップ・ド・フォンテーヌ閣下の御息女、ソフィア・ド・フォンテーヌ姫に御求婚なされた。フォンテーヌ家は、第二代フィリップ一世の王弟殿下、レオ王子を始祖にもつ名家で……』


「……何がご不満なんです? 国王陛下ですよ? 地位も権力も富も、申し分ないでしょう?」

 ソフィアはキッとルイを睨みつけた。

「何もかも、ご不満よっ! 愛してもいない人の妻になんか、なれるもんですか!」

 怒れる姫君はすごい剣幕で捲し立てた。

「舞踏会で、偶然見かけたくらいで求婚するなんて、どうかしてるんだわ、国王陛下は!」

 ソフィアはバンッ、とテーブルを叩いた。ルイはビクッとする。こんな台詞が国王陛下の耳に入ったら大変な事になる。国王不敬罪というやつだ。

「そりゃあもうこっちじゃ大変な騒ぎよ! 断ったって構わない、なんて言うけど、この国王統治下のセイファームで、断れる人間なんかいるわけないじゃない! 本当に陛下は何考えてんのかしら!!」

 ばんばんとテーブルを叩き続ける。
 ルイは何も言わずに彼女が叫ぶのを聞いていた。

「だからっ! お願いだから、お父様には連絡しないでっ!」
「そうは言っても……」

 ルイはまた冷や汗をかく。何だかとんでもない事になってきた。

「お願い! あ、そうだ、ねえ、わたし料理とかするからここにおいてよ! 迷惑かけないから!」


 目眩がしてきた。いやな感じだ。


「お願いっ! ホントに頼みます! ホントになんでもするから!」

 彼女は目じりに涙を滲ませながら懇願したが、なおも戸惑い続けるルイを見て、溜息をついた。そして、先程以上に恨みがましい目付きでじっとルイを睨んだ。

「……いいわよ……どうせ、世間知らずの馬鹿な娘が何を馬鹿なことを言う、って思ってるんでしょ?」
「そんなこと……」
「思ってるんでしょ。だったらはっきり言えばいいじゃない! 世間知らずが都会で生きていけるはずがないって! 親の言うことは聞くもんだって! ……娘は大人しく、黙って嫁に行くもんだ、って!!」

 今まで、そう言われてきたのだろうか。悔しさのあまりか、目じりに涙が滲む。

「別にぼくは……」
「言い訳は止めて! 分からないわよ、あなたには! 貴族の女の苦労なんて!!」

 ソフィアは、言葉の勢いそのままのスピードで部屋を出て行った。バタン、と扉の閉まる音がする。

「え、あ、ちょっと!」




 彼女が家を出て行った事に気がついたルイは、慌てて後を追った。





 ソフィアはすごい勢いで走って行った。ルイは慌てて追いかける。

「どこに行くんです!?」
「あなたには関係ないわ!」

 馬車の通る大通りを横切り、人込みをすり抜け、裏路地を抜け……人の、自分の、ドレスの裾を踏みそうになりながら、それでも何とか転ばないように必死で。
道行く人々が驚いて振りかえる。

「ついてこないでよ!」
「どこへ行く気ですか?」
「あなたには、関係ないって言ってるでしょ?!」

 彼女は走る。どんどん走る。舗装されているとはいえ、石畳の道は足に負担が大きくて、あっという間に痛くなる。それでも彼女は止まらない。馬車にひかれそうになって怒鳴られても、見知らぬ紳士にぶつかっても勢い一つ変えない。
大分走ったところで、何かが見えてきた。ソフィアは最後の力を振り絞って、スピードを上げる。

「アルベール橋……ローヌ河?」
「……好きでもない、人の所に、お嫁に行く、くらいなら……」

 ソフィアは息を切らせて足を止め、振りかえった。思わずルイの足も止まる。

「何を……?」
「――死んだ方がまし!!」





 そう叫ぶなり彼女は、橋の上から身を躍らせた。