紺碧




 今からざっと二千年ほど前。現在のヴァシリース共和国よりも更に北ヘ行った
エイランドラ山の方に、ヴァシリスコスという王国があった。
 ヴァシリスコス王国というのは土地の痩せた、貧しい国であった。
これといった特産物もなく、ろくな貿易もできずに、人々は山間の段々畑で細々と豆や小麦や芋を育て 、家畜を飼って、慎ましく生計を立てていた。

 ――アッシリウス暦七八六年
 その年、異常なまでの日照りが国を襲い、作物は育たず水は涸れた。
国は荒廃し、最後の望みであった芋までが不作であるとはっきりしたその日、当時王位に就いていたゼルヴァンティズ五世は、 長年考えられてきた事をついに決断した。
 豊かな隣国、オーヴェルジーヌに攻め込む――。

 突然の隣国の侵攻に、オーヴェルジ―ヌは慌てた。
長く平和だったこの国には 軍隊らしい軍隊はなく、対抗する手段を持たなかったのだ。
 しかしそれでも、豊かな財産にものをいわせて勢力を逆転し、 ヴァシリスコスを退けようとしたその時……ヴァシリスコスに救世主が現れる。
 救世主は自身の操る超能力のような不思議な力を用い、 あっという間にその戦況を巻き返し、ヴァシリスコスに勝利をもたらしたのだった。

(クライト・『伝承・古代ヴァシリスコス』より抜粋)



 ――アッシリウス暦七八九年
 
 風がそよいでいる。輝く陽の中で耳に届くのは、樹々のざわめきと愛らしい小鳥の囀りだけだ。
 その日、暇な午後を研究室でのんびりと過ごしていたアリューシアスは、聞き慣れない馬の蹄が地面を叩く音を聞きつけて、絹張りの長椅子から身を起こした。
「アリューシアス神官長殿! おられるか?」
 馬の嘶きと共に、下から朗々と響く声が聞こえてくる。
この独特の喋り方はほぼ間違いない、国王付きの近衛兵のものだ。という事は?
「陛下のお召しですか?」
 涼やかなテノール・ヴォイス。彼は身なりを正して下へ降りていく。
 馬を下りたまだ若い騎士は思わず息を飲んだ。
 大理石のような白い肌に、神話の時代の物語に出てくる神々のような端正な顔。銀よりも、更に輝く、神官特有の長い髪。そして何より……紅玉を溶かして煮詰めたような、赤い瞳。
 若い近衛兵は畏敬の念を持って、この美貌の神官長を見上げた。
「陛下の御用とは?」
「小生は何も伺っておりませぬ。是非直々にいらして頂きたいと、そう仰っておいでで」
 緊張に硬くなった近衛兵がかすれた声でそう答えると神官長は薄く笑った。
「そうですか、分かりました。参りましょう」
 彼は奥に入っていった。近衛兵は安堵の息を漏らす。噂よりも更に美しく…… 冷たい空気をまとった人だ、そう思って。
 しばらくして戻ってきたアリューシアスを見て彼は、再び絶句した。
 神官の礼服をその身にまとい、素晴らしい馬に乗ったうら若い神官長の 神々しいまでの勇姿。
それはまさに『救世主』――。そう呼ぶに相応しい、 畏怖の念をも感じさせるものであった。