緑雨



1


 父王の喪が開けてすぐに行なわれた戴冠式は、これ以上ない程恙無く終わった。
 ぎらぎらと眩く煌く王冠を、その頂きに唯一戴ける彼には、最早敵はいない。政敵と呼べるほどの貴族もいないし、国内にも外交上にも大きな問題は一つもない。
 望んでもこれ以上は得られないくらいに整った、新たな王位。
 それなのに、胸の中を冷たい冬の風吹きぬけていくようだと感じるのは、やはり、彼女がいない所為だろう。

 あの、激しく燃えた目をした美しい容貌の、冴えた少女が。



「どうしたのです? アルファ。溜息ばかりついて」

 今や国王となったアルファのたった一人の肉親である母親、王太后セリアは、そのほんの短い安らいの時に、穏やかなその美貌を少しだけ歪めて息子に問うた。

「いいえ、なんでもありません」

 晴れ晴れと笑ったつもりでも、母親にはそうは見えなかったらしい。彼女は困ったように、息子によく似た溜息を漏らした。

「……シャーゼリンディリア姫のことね」
「母上」
「戴冠式にさえ御出席して頂けなかったものね」

 出席を願う書状を持って出かけた王の勅使は、『私はもう王家のものではないから』と穏やかに、だがはっきりと拒絶され、何の収穫も得ずに帰って来た。

「……シャーゼリンディリア姫を不幸にしたのは、わたくしね」
「母上?」
「だって、そうでしょう」

 王の妾であった彼女こそが、父王と正妃との不仲の原因だった。あの不仲さがなければ正妃は本当に王の子を産んでいたかも知れず、そうすればシャーゼリンディリア姫がどこかから連れてこられることもなかったはずである。

「けれど、後悔はないのよ」

 あなたが生まれたその後はね、と彼女は背筋を伸ばした。

「さあ、新たな王よ、しっかりなさい」





 あなたはこの国を治めていかねばならぬのだから。





 部屋を出ていく母親を見送り、若干18歳の国王は、どうしてそんなにすっきりと割りきれるのだろうと泣きたいほどの気持ちにかられた。
 アルファは彼女を取り戻したいと思った。脆い吊り橋の上を渡っているような彼女を手元に置いて、拒否されながらでもいいから、見守っていたかった。


 どうしようもなく、好きだったのだ。


 どんな酷い拒絶を示されても、見ていることしか許されなくとも、それでも、どうしようもなく。





 あの炎に燃えた青紫の目。

 輝き光る、銀の髪。

 自分だけを真っ直ぐに見つめて睨む、その視線。





(あの子は、妹だ)
(いもうと、なんだ……)





 そう何度も己に言い聞かせ、押さえて来た想いが、彼女の正体の露見とその不在を機に、箍が外れて溢れ始めている。





 王権の継承と共に、彼には王妃を選出する義務が発生する。
(あの子を忘れる為にも)
 早く王妃を選出しなくてはならない。
(そう、忘れるんだ……)





>>2へ
2

 
「――シャーリー様、シャーリー様?」
「ここよ、リラ」

 シャーリーは広い広い書斎のような部屋から首を出した。
 離宮には、追放された王族達が己を慰め、都に思いを飛ばす為に集めたのか、おびただしい量の書籍がただほこりを被って放置されていた。

「またですか」
「ええ、だってもったいないわ。今では貴重な本もあるのよ」

 整理して、取合えず読んでみたいのよとシャーリーはリラにうっとりと微笑んでみせる。

「まぁ、それはいいとして。さっきそこで牧師様の奥様にマフィンを分けて頂いたのですよ。おやつになさいませんか?」
「頂きたいわ」

 のどかな田舎の暮らしに早くも溶けこみ始めたリラを、シャーリーは微笑ましい思いでみつめる。リラは、わたくしは田舎の貴族の出ですからね、と胸を張った。




 シャーリー自らの所持品と、正妃が娘を着飾らせるためだけに大量に買い与えた宝石の類を都で売り払って来たのが幸いして、暮らしていく金には困らない。始めは都を何となく恋しがっていたシャーリーも、ここの暮らしがそれほど悪いものとは思わなくなって来た。
 何しろ時間の流れがゆっくりで、おっとりとした人のいい人間が多いのだ。シャーリーの噂は知らないこともないだろうに、どちらかと言うと憐れまれて、弾かれることはほとんどない。
 それどころか時々こうしておやつを差し入れてくれたり、リラを会合に誘ってくれたりする。

「いつもよくして頂いて申し訳ないわね」
「今度村の娘達のお菓子作り講習会に参加なさいませんか、と仰っていましたよ」
「あら、それも楽しそうね」
「日曜日に教会で子供達に文字を教えて頂けないか、とも仰られて」
「文字を?」
「ええ、この辺りには学校に行けない子もまだまだいますから」
「そうね、心の整理がついたら、お受けしてもいいかもしれないわ」

 そんな話をのんびりとしながら、都のとは桁違いに品質の劣る茶を飲む。けれど、それをシャーリーは不幸とは思わない。王宮を出たことが、彼女の中にあった何かの枷をはずしてくれたようにすら思える。





 でも、手に入れられなかったものはやっぱり手に入らない。


 失われ、欠けたものは、二度と戻ることはない。


 あの哀しい17年は、哀しいまま。





 それは、間違いなく不幸で、苦しみで、悲しみであったけれど。何もかもが、もう、夢のように遠く、どうでもいいのだ。





 生きる目標がないのだから、もうどう生きようと何もない。自分の最大の目標は果たされないまま。果たすことは永遠に叶わないままに、薄れて、ぼんやり、儚くなってゆく。










 けれどもう、それでいいのだ。

















 都も男も、もう、遠い。




>>3へ
3

 
「それでは陛下はその時?」
「ええ、そうなんです」
「まぁ……陛下はとてもお優しいのですね」
「それにお噂通り、とてもお美しい方!」
「王太后様に、びっくりするほどそっくりですわ……」
「ありがとうございます」
「それにまあ、陛下は……」

 恐らく王妃の選考会を兼ねていると思われる茶会で、大勢の貴族の姫君達を相手にしながら、アルファは心の中で溜息をついた。
 皆一様に美しく、物腰の柔らかな、着飾った姫君たちである。けれどその動きは様々だ。

 王妃を選ぶ時期であるという事を知ってか、流し目を送ってくる女性もいれば、何も知らずに憧れの視線のみを向けてくるうら若い少女もいる。
 あからさまに、陛下のお好きな女性のタイプはどのような方ですの、と聞いてくる者もいるし、欲望や野望が隠しきれずにどこかぎらぎらした者もいる。
 澄んだ目の者も、澱んだ目の者も、金髪も黒髪もブルネットも、背が高い姫も小柄な姫も。知的な人も頭の悪そうな人も、平凡そうな人も。
 大勢の女性の相手にアルファはいい加減疲れて来ていた。
 それに、どの姫を見ても、ついついシャーリーと比較してしまうのだ。見かけの美しさだけならシャーリーよりも美しい姫もいるし、彼女以上に光る銀の髪の姫も、いる。苛烈な炎だけを宿した姫だって、いないことはない。

 けれど、あの、心の奥を見透かすような、強い光の苛烈な炎を宿した、それでいて清らかな目をした姫はいない。



(考えるな)
(比べたらいけない)



 そう自分に言い聞かせても、何の効果もない。



(あの姫よりシャーリーの方が綺麗な目をしている)
(綺麗な銀の髪だけれど、シャーリーの銀色の方が好きだ)
(ここにいるどの姫よりもシャーリーの方が賢いだろうな)



 思いとは逆に、無駄な思考の渦にはまってゆく自分を自覚して、彼は心の中で再び、大きな大きな溜息をついた。












「ご苦労様、陛下。今日はどうでしたか?」
「どうもこうも」

 草臥れ果てた息子を前に、王太后は苦笑い。

「あなたのおめがねに適う方はいらっしゃらなかったようですね」
「いまひとつ、この方だ、と思う方に出逢わないのです」
「難儀だこと……」

 ふう、と息子によく似た溜息をついて、皇太后は彼の目をじっと覗き込んだ。それが辛いのかアルファは、すいっと視線を反らしてしまう。

「……アルファ、シャーゼリンディリア姫のことはお忘れなさい」

 彼女の深い森の色の瞳に、美しい容貌の若い王が映っている。

「あの方と添い遂げる事はかないません」

 この上なく優しい声で、柔らかく告げられる、望まない言葉。
 それは、侍女であったセリアと前王の恋路よりも果てしなく、複雑に入り組んだ、交わる事のない路だ。

「例え貴方が彼の姫君を愛し、あの方がそれに応えて下さったとしても、それは許されないこと」

 真実の兄妹ではないけれど、それでも兄妹なのだから。

「忘れなさい」

 よく通る、透明な声でそう言いながらセリアは、彼の姫を思う。

 敵対心を剥き出しにしてはいたけれど、その美しさは燃え盛る炎の中で日輪を目指して咲き誇る一輪の白百合のようで、凛々しく、雄々しく、そしていっそ気高いまでに厳しく、輝くように眩しかった。その激しい輝きが、彼女を実際の見た目以上に美しく見せていたものだ。
 王が決まり、その輝きのやり場を失ったあとの姫は、その炎の激しさに己の内側を焼き尽くして弱ってゆくようで、痛々しくそして美しく、見ていられないほどだった。

 自分の息子がその輝きに心奪われていると気がついたのは、いつだったか。それに気がついた王が彼女をいっそう遠ざけるようになったのを、ただ黙って見ていたのはいつだったか。それが逆に彼女をアルファの中で尊いものに成さしめるのだ、と、そう言えないままに時は過ぎて。

 今こんな形で綻びが現れてしまっている。

「忘れなさい」


 冷たいほどの声でそう言うと、息子は苦しそうに視線を戻した。







「分かっています」






 その、セリアよりはほんの少しだけ明るい色をした緑の瞳が、訴えるように揺れている。






「忘れなければ、ならないことも。許されないことだという事も。――いつまでも囚われているわけにはいかないと、いう事も」


 けれど、と彼はうめくように呟いた。


「近い内に、わたしはどの姫かを娶ります。意に染まぬとしても、必ず娶ります。ですから」







 心の片隅で密やかに想う事だけは許して欲しい。







 王太后は返事が出来なかった。





>>4へ
4

 
 遠い夢に思う、都のことを、ぼんやりと考えながらシャーリーは冷えてゆく冬の長い夜を過ごす。
 古びた本と、まるで琥珀のような色をした、鼻をくすぐるような香りの紅茶、それだけを共にして、その長い夜を越えて行く。
 壊れかかった離宮のほこりを被った蔵書には、今ではめったに見られない珍しい本から、下町の娘が読むような三文小説まで、ありとあらゆる種類が揃っている。
 まるでボンボンのように甘ったるい恋愛小説、幼い少年が心ときめかす冒険小説、とある貴族の紀行本、国内で見られる草花をまとめた、学者の苦労の結晶である植物学の本、新聞小説だったミステリー小説……。
 シャーリーはほとんど選ぶことなく、手当たり次第に本を読む。


 時間だけは腐るほどある。

 他には何も、ないけれど。


「……もう今日はこのくらいにしておこう」

 ランプの油がもったいないと、シャーリーは灯りを消して、寝台に潜り込んだ。いきなり暗くなった室内に、カーテンの隙間から差し込んで来る白い月の光。
 不意に気になってカーテンを開ければそこには、自らの身を水に浸したあの夜の月に酷似した、丸い、月。
 あの日のように美しくは見えないと思うのは、主体的に生きる事をもう放棄してしまった自分に、命の輝きが欠けているからだ。そう思うシャーリーはカーテンをひいて瞳を閉じた。



 なかなか訪れない睡魔に嫌気が差した頃、彼女はようやく、とろとろと眠る。















 陽が昇る頃目覚める国王は、ちょうどシャーリーが眠った頃に目覚めた。冬の遅い夜明けの空に、白い星がひとつぽっつりと明滅する、そんな時間帯である。

 彼はふらりと起き出して、憂鬱そうにテラスからその星を眺めやった。
 朝の光に消されそうになりながら、それでも一際眩しいほどに光るその白い輝く星に、あの日まで、苛烈な炎を宿していた少女を思い起こす。


「嗚呼」


 一筋流れる星。

 それは定まらない自分のようだと、彼は自嘲する。






 水の中で少女はあの日、苛烈さを失った。


 水をかけられた篝火のように、目の前で彼女の内なる炎が消えてゆくのを、彼ははっきりと見ていた。その美しい眩さも、激しさも、輝きも。昇る朝日に打ち消される星の光のように、ぼんやりとして、消えていった。

 自分を捕らえていたものを全て無くし、輝きを失った彼女を見て、ああ、これで自分はあの想いから解き放たれるのだ、と確かに思ったのに。




 炎が消えた、最後の微笑みの瞬間に、彼女は遠退いた。今まで以上に届かない遠くへと、行ってしまった。




 水に濡れたまま彼の腕の中にいた、あのぐったりとした娘は弱々しく、冷めた蝋燭のように、この世の全てに興味を失っていた。そう、唯一の反抗対象であった彼からさえ。
 そしてその時彼は、自分を彼女の瞳が見る事はもうないのだと、そう気がついてしまった。

 例え様もない程、遣る瀬無かった。腹立たしかった。悲しかった。切なかった。だからこそ手放したくないと、そう、思ってしまった。




 まるで別の娘のように何も見なくなった、まるで盲目のような少女を彼は、愛した。




 苛烈だった今まで以上に、深く。
 もう手が届かないと知りながら。
 ……手が届かないからこそ。
 まるで子供のわがままのような、剥き出しの感情そのままに。




「嗚呼」



 会いたい。苛烈さを失い冷めた、あの少女に。
 どこまでも透き通った目で遠くだけを見つめる事を望み、この世の何もかもを厭って現実から去っていった、少女に。



 会って声を聞きたい。


 それだけでもいい。









「シャーリー……頼む」













 頼むから私を、解き放ってくれ……。




>>5へ
5

 
 風が哭いた、とシャーリーは思う。

 湖の辺をすることもなくただ逍遥する彼女は、冬の足取りに悲しみさえ感じて立ち竦む。
 ここの水達は自分を優しく包んでなどくれないと知っているから、もう飛び込んだりはしない。彼女達はただシャーリーを映し、笑いさざめいて何も教えてくれはしない。ましてや抱擁してなど。

 冬の短い日はとうに落ちて、彼女は離宮の方へ向かって静かに足を運ぶ。
 空は翳り、俄かに雲が沸いて来て、昇ったばかりの月や星を隠してしまう。その輝きを包み込んで、暗幕のように黒く広がっていた。

「早く帰らないと、降るかもしれないわね」

 村人達は、雪にはまだ早いのだと言う。あの山の雪が半分被るまでは降らないのだ、とそう言う。

 こんなに冷えているのに、とシャーリーは思う。
 身体どころか心まで、冷え切らせてしまうほどに寒いのに、と。

「シャーリー様?」
「今行こうと思っていたのよ」


 迎えに出て来たリラに微笑んで、シャーリーは歩く。


 ああ、風がまた哭いた。

 悲しいほどに胸を騒がす、切ない声で。








 予想はあたり、冷たい雨が大地を叩き始めた。
 森を濡らし、湖を冷やし、屋根を洗って、冷たく、降る。

 ひたすら冷え込むこんな夜は、寝てしまうに限るのだ、と、シャーリーもリラも、カップいっぱいの蜂蜜入りの紅茶を飲んで、早々に眠りについた。







 相変わらず風が哭いている。
 嵐の夜に、木々を揺らして雨に打たれて、哭いている。










 不意に雨音が騒いだと、そう感じてシャーリーは目覚めた。
 夜明けにはまだ時間がある。
 雨は強くなるばかりで、止む気配はない。風も相変わらず哭いているまま。
 でもその中に何かが騒いでいる、そう思ったシャーリーは、静かに起き出して寝巻きのまま、フードを被ってランタンを持ち、扉を少し開けて見る。


 荒れ狂う嵐。
 吹きこむ風。


 嵐に呼ばれたような気がして、シャーリーはふらりふらりと、強風の雨夜に出て行った。ガラガラとどこかで何かの転がる音がする。
 恐ろしい風が、叫ぶように、シャーリーの名を呼んだような気がして、彼女は雨に打たれる。










 ふらふらと呼ばれるようにして村外れの巨木の下まで来て、シャーリーはあっと悲鳴を上げた。
 何かうずくまっている。
 それはどことなく見覚えのある、懐かしい気さえする何か。

 暗がりの中、何も見えないその空間で、ランタンの光に浮かびあがったその顔は、あの、男。





 兄と信じていた、あの、都の男。




 何故ここにいるのか。何をしているのか。
 何も分からないそのままに、彼女は彼の横に座り込む。
 冷え切った身体でぐったりと、荒い息のまま横たわった力ない男の顔を照らす。悲しいことに、彼に間違いなかった。
 一国の王が辺境の村の外れで、何をしているのか。そもそもこのような雨の夜に、何故外に出ているのか。暖かい宮殿の中で愛してくれる人々に囲まれて、談笑するなり、最高級の布団に包まって寝るなり、すればいいものを。

 いくら憎んでいた男だとは言え、このように弱って倒れこんでいるものを放っておく趣味などシャーリーにはない。呆れたようにランタンを下に置き、取合えず人を呼ぶなり何かしようと思い立った彼女が動いたのに気がついたのか、青年は薄く目を開いた。

「気がついた?」
「……シ…………シャ、……リ……?」
「他に誰に見えるの」

 冷え切ってろくに口も動かないのだろう、舌足らずに彼は呟いた。

「あ……ああ……そ、うか……」

 変に安堵したような表情で、彼は再び目を閉じる。
 不審に思って彼女が屈み込むと、まるで巣を張っていた蜘蛛の様に、彼は彼女を捕らえ、抱き締めた。

「…………ちょっと」
「ご…めん…………」
「離して」
「いや、だ」
「冷たいのよ。わたし、あんたと心中なんてごめんだわ」
「……死ぬ…もん、か」
「動けるんならさっさと動いて」

 この弱り切った身体のどこにそんな力が眠っていたのか。彼の抱き締める力は予想外に強くて、振り解けないシャーリーは眉をよせた。

「これ以上濡れたくないの」

 ランタンの火が消えそうになる。
 手をランタンに伸ばしてシャーリーは呟く。

「離して。人呼んで来るわ」








 そうしてランタンの火が、ふいに、消えた。





>>6へ
6

 
「馬鹿じゃないの?」

 昏々と眠りつづけ、翌朝、快適とはお世辞にも言えないものの、乾いた清潔な寝台の上で目覚めたアルファを待っていたのは、そんな言葉だった。

「子供でもわかるわ。用もないのに嵐の日に外に出るなんて馬鹿だって」

 冷めたような目で、冷えびえと、そう言われてアルファは苦笑する。

「馬鹿かな」
「ええ、誰が見ても」

 どうでも良さそうにそう言いながら、彼女は手元の本に目をくれた。アルファをかいがいしく世話するのはリラである。何しろあの暴風雨に打たれてすっかり冷え切っていたアルファは、誰もがそうであるように、熱を出したのだ。

「ましてや歩いてくるなんて」

 馬車で3時間の道のりを。

「共もつけずに、一人で、傘もささずに」

 国王云々言う前に、人としておかしいのではないか。そう言うシャーリーにアルファは、きまり悪そうに微笑んだ。

「……まあ、そうかもしれない」
「何ですの今回は? 後宮からの逃走、とでも気取るおつもり?」
「私が妻を娶るのはこれからですよ」

 アルファは小さく溜息をついた。それは嫌に白い、悲しい溜息。

「……ただ何となく、あなたの顔を見たいと思っただけ、それだけなんです」

 見納めとなるかもしれないシャーリーの顔を、じっと見つめた。
 今までなら彼女のあの苛烈さが、彼をも鼓舞してくれたものだが、その苛烈さが消えた彼女はもう、ただすっくと立っている、どこか遠い不思議な女に見えた。

「そう」

 短く答えた少女は、遠くを見るような目をアルファに向けた。
 その時アルファは、始めて彼女が自分を見たような気がして、目を伏せた。それは自分が望むのとは、違う視線。興味も何もない、目の前にただ在る人物を眺める、ごく普通に皆が向ける、視線。
 しかしそんな視線でも嬉しいと思う、自分が悲しい。



 解き放たれる為に、永遠の別れを誓う為に、やって来た、その最後の時になって。



 アルファの溜息は小さく晩秋の空に昇る。



「リラ、申し訳ないけれど、王宮に連絡をして頂けないか?」

 意外そうに彼を見遣ったシャーリーに苦笑して。

「逃げつづけるわけにもいかないんだ。王になってしまったから」

 王になるとは思っていなかった彼には、それは在る意味で重責だった。王になると思っていた彼女は、その重責を求めていたのだけれど。

「……そう、ね」

 シャーリーはまたぼんやりとそう繰り返した。

「王だもの、ね」

 なりたかった、なりたくて堪らなかった、なることだけが自分の存在価値だと思っていた。

「でも、もういい」

 あの日、彼女は自分の人生の全てを捨てたのだ。

「生きる意味も捨てた」
「……シャーリー?」
「王宮でじっくり療養なさいませ。私がどんなに望んでも、得られなかった地位を、疎むなんて許しませんよ」




 その一言が、鍵。




「さようなら、王様」











 そうしてアルファは、王という地位に在りつづけることを余儀なくされた。彼女の言葉が彼を、一層堅固に王位に縛り付けたのだ。
 他の誰の言葉より、何よりも強く、彼に王の自覚と責任を与え、一時たりとも離れることを許さない、その強い言葉。







 彼は結局解き放たれず、彼女が帰ることもなかった。








 二十歳の誕生日を迎えると同時に、アルファはとある公爵家の令嬢を娶り、正妃とした。彼はそこそこ幸せに暮らし、2年後には王位を継承する王子も生まれた。
 父親に似て、美しく聡明な王子であった。

















 シャーリーは、30になる前に、娘を一人、残して死んだ。

 その父親は、リラもアルファも知らない。




>>あとがきへ
あとがき

 
「紫炎」に続く「緑霧」です。

 一つ前、「紫炎」は高3の時の作品ですが、これも同じ。
 紫炎が終わってから直に書き始めた作品です。
 紫炎よりも更に暗く、どうしようもない感が漂っている感じ。

 如何せん、私はこんな雰囲気が好きなようです。

 ここで終わりかよ!?
 とか、思わないでやってあげて下さい。
 終わりなんです。
 (後は彼女の娘がぽつりぽつりと……?)


 お付き合い下さった方、どうもありがとう御座いました。


 2003年8月に ゆえ



再掲にあたって
暗い話の続きで相変わらず暗いのですが、前作に比べて、こっちは再生のための物語を書こうとしたんだろうなあ、という己の無茶振りが伝わってきます。何もかも捨てた気になったら、案外生きていけるものだったんじゃないですかね。不幸だとばっかり思っていた自分の環境が、物理的には他者よりずっと恵まれていたわけですから。ま、つまるところ、私が書く女はやたらと強いのです。
(2008/12)


閉じる